和太鼓

和太鼓アーティスト

KANTAさん

和太鼓で越境するエンターテイナー

「えんぶり」生まれ「鼓童」育ち。
ワクワクしながら、新たな表現を追求

1章

クレイジーな大人たち

八戸の冬を代表する郷土芸能「八戸えんぶり」。
その担い手として活動する「八戸えんぶり組」には、「親方」と呼ばれるリーダーがいる。

「親方が、一番クレイジーなんです」

KANTAさんは、そう笑って振り返った。

東京生まれのKANTAさんは2歳の頃から母の地元である五戸町で暮らすようになる。
そして小学生の頃、青森県南部地方の郷土芸能「八戸えんぶり」や「虎舞」と出会った。

長らく途絶えていた小中野えんぶり組を復活させ、三社大祭の山車制作にも携わってきた親方は、民謡を嗜み、日本舞踊の腕前は歌舞伎役者にスカウトされたこともあるほど。伝統芸能を深く愛し、腕を磨き続けていた彼はKANTAさんにとって、芸道の“父”のような存在だったという。

そんな親方が小学生のKANTAさんを連れて行ったのが、世界的な和太鼓集団「鼓童」の公演だった。

和太鼓の響き以上に、舞台がつくり出す独特の世界観に、KANTAさんは引き込まれた。
岩手の鬼剣舞、埼玉の秩父夜祭、三宅島の三宅太鼓——。
各地で受け継がれてきた郷土芸能が、初見の観客をも惹きつけるパフォーミングアーツとして立ち上がる光景は、強烈な原体験として心に刻まれた。

その興奮は、親方も同じだったらしい。
帰路で「面白い」と語り合った勢いのまま、和太鼓グループを立ち上げてしまう。
さらに、当時の小中野公民館の館長もまた“クレイジー”だった。
すぐさま10数台もの和太鼓をそろえ、活動を後押ししてくれたのだ。

こうして生まれた和太鼓グループ「朋和会」えんぶり組のメンバーを核に活動を広げ、の和太鼓アーティストKANTAとしての原点となっていく。
10年以上にわたり毎年のように公演を行い、八戸市公民館文化ホールの約500席を満員にする人気を博した。

ふるさとで地に足をつけて生きながらも、「面白い」と思ったことを追いかけるのも諦めない人。そんな“夢追い人”を全力で応援する人。

そんな“クレイジー”な大人たちに囲まれて、KANTAさんは育ってきた。

2章

殻を破るために、島へ

和太鼓グループに伝統芸能と、本番を重ねたKANTAさん。
高校卒業後に選んだ進路は、佐渡島にある鼓童の研修所だった。
全国から志願者が集まり、オーディションに合格できたのは、数千人の中からわずか十数人。
郷土芸能の現場で叩き上げたKANTAさんにとっても、まったくの別世界がそこにはあった。

研修所での生活は、想像以上に厳しい。
朝は夜明け前に起き、宿舎の掃除から一日が始まる。
走り込みの後は、座学やさまざまな芸事の稽古が夜遅くまで続いた。

和太鼓の技術を磨く以前に求められたのは、「人間としての基礎」を身につけること。
食材は自分たちで畑を耕して収穫し、料理し、道具も手づくりする。
箸一本さえ、裏山の竹を切って加工するところから始まった。
最初の一年間は、太鼓に触れることはほとんど許されなかった。

所作、茶道、民謡、日本舞踊。
身体の使い方や呼吸、場の空気の読み方。
芸事と生活は切り離されておらず、すべてが地続きだった。

夢を追いかけ脱サラした人など、研修所にはKANTAさんより年上の研修生も多かった。
年齢・性別・背景の違う仲間たちが、同じ釜の飯を食べながら、自分自身と向き合っていた。

そんな日々の中で、少しずつ変化が起きる。
進級をかけたオーディションに通らず、島を去る者。
研修生活で習得した料理や環境保護など、別の夢を見つけて進路を変える者。
「太鼓の道」だけが唯一の正解ではないことを、KANTAさんは目の当たりにしていった。

そして二年間の研修を終える頃、ひとつの選択をする。
鼓童のメンバーになる道ではなく、自分自身の表現を探す道を選んだのだ。

きっかけは、日本舞踊の授業。
講師を務めたのは、歌舞伎の女形として活躍する人間国宝だ。
指一本、身体の重心ひとつで、まったく別の世界を立ち上げる表現。
その奥深さに触れたとき、KANTAさんの中で、和太鼓だけにとどまらない表現への関心が芽生え始めた。

卒業後に向かった先は、東京ではなかった。
エンターテインメントが集まる都会よりも、郷土芸能という自らの原点が息づく場所。
八戸に帰り、そこから自分だけの表現を見つけたいと考えた。

「どこで、どう生きるか」
「何を拠り所に表現するのか」
研修所での日々は、その問いを身体の奥に刻み込む時間になった。

3章

結局いつも、ワクワクするほうへ引き戻される

とはいえ、ふるさとに戻ったKANTAさんは、すぐに舞台へと戻ったわけではない。
芸事だけに打ち込んできた時間の反動もあり、アルバイトをし、生まれて初めての“ふつうの生活”を経験した。
「それまで郵便物の出し方も分からないくらい、社会のことを何も知らなかった」と笑う。

青春時代を捧げ、自らのアイデンティティと分かちがたく結びついていた和太鼓。
大切なものと距離を取るようになったことで、“余白”が生まれたのかもしれない。

地元で結成した和太鼓グループのメンバーから教えてもらったDTM(デスクトップミュージック)、中でもDJ Skrillexに、ハマった。


郷土芸能の生音とは正反対の電子音。
「この音、どうやって作るんだろう?」
一気にのめり込んでいった。

バイト代と家族の援助でパソコンとソフトをそろえ、楽曲制作に没頭。
しかし20代の日々は変化が激しい。周囲の同年代は就職し、家庭を築いていく。そんな中で一人、熱狂に身を委ねることに、不安や葛藤をはなかったのだろうか?
尋ねてみると、「僕は、ワクワクすることしかやらないんです」という答えが返ってきた。

実は中学時代、バスケットボール部に所属していた。
けれど試合と本番や祭りが重なったときは、迷わずステージを選んだ。
「やっていることは違っても、みんなそれぞれの場所で頑張っている。その人なりのステージがあると思っていて。僕はそれが音楽、表現だった」

DTMに打ち込んでも、別の道を考えても、「不思議と和太鼓に引き戻される」とも言う。
音楽と無関係に知り合った人から、「イベントで太鼓を叩いて」と声がかかったこともある。
しかし太鼓を打つことで出会いが生まれ、視界が開け、人生が前に進む感覚があった。

和太鼓に引き戻された経験のひとつが、2016年の和太鼓コンクールだ。
和太鼓を舞台芸術として確立させた第一人者・林英哲氏が主催する、初開催のコンクール。
当時、組んでいた和太鼓グループが解散したばかり。力試しのつもりでエントリーした舞台で、KANTAさんは優勝を果たす。

「あれほど緊張したのは、最初で最後かもしれません」

披露したのは、担ぎ太鼓を用いた演奏。
文字通り太鼓を体に担ぎ、ステップを踏みながら打つ。
演奏と踊りを同時に成立させる高度な表現だ。
「君の演奏は、世界のどこに出しても恥ずかしくない」
レジェンドからの言葉に、KANTAさんは腹を括った。

「これでいこう」

その後、クルーズ船での舞台やコラボレーションなど、活動の場は少しずつ広がっていく。
コロナ禍でライブが激減すると、楽曲制作と配信に力を注いだ。それが現在の和太鼓演奏に自作の楽曲や歌、舞を組み合わせた唯一無二の表現方法に繋がった。

守って、破って、離れる。
そしてまた、つながりの中で続いていく。

世阿弥の『風姿花伝』にも通じる「守・破・離」という考え方をKANTAさんは18歳のとき、長年交流のあった住職から教えられた。以来、人生のテーマとして心に留めてきた。

KANTAさんは自分を特別だとは思っていない。
「僕のワクワクできる方向が、たまたま舞台だっただけ」

クレイジーとは、遠くへ行くことではない。
自分の熱を信じて、何度でも動き続けることだ。
KANTAさんの歩みは、そのことを教えてくれる。

取材・文:馬場 美穂子

もっと知りたい方へ(活動リンク)

和太鼓アーティストKANTA

青森県を拠点に活動を広げる 和太鼓アーティストKANTA。
高校卒業後、太鼓芸能集団「鼓童」研修所に入所。 その後、「鼓童」創設者であり、 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」メインテーマにも 参加したソリスト・林英哲さん主催の 第一回林英哲杯 太鼓創作楽曲コンクール(2016) 独奏部門にて最優秀賞を受賞。 2020年からは、和太鼓の新たな可能性を求め、 自作楽曲に太鼓演奏、歌、舞を組み合わせた 唯一無二のパフォーマンスを魅せる。

公式サイト
https://www.kanta.website/

Instagram
https://www.instagram.com/33.kanta/

Youtube
https://www.youtube.com/@kantaofficial0303

出演依頼やお問い合わせ ▶︎ kanta.official.staff@gmail.com

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